日本で「真の武士」を育てる目的で、日本建国がなされた神代の時代から流れている古来の「武道」を、我国の唯一の文化遺産と位置付け、その保存と振興活動を行うため武道振興會は設立された。
 源平時代から人馬一躰といわれ、「武士が乗馬する時は、必ず太刀、弓矢を携へる」という鉄則がありました。この風習は、平安時代から、室町時代を通じて守られてきました。武士は必ず馬に乗れなければならず、馬上で弓、太刀、槍、薙刀が自由に使いこなせて、はじめて武士と呼ばれました。
 剣、弓、馬は、日本の神代の時代から大切にされてきました。やがて、この三器は士(もののふ)の必需品になり、日本人は、国を守るため、家族を守るための戦いで使用してきた三つの武器を、美しいものに昇華させたのです。
 この「武士(さむらい)」を目指す道を武士道とも武道ともいいます。今日の日本は、この道を忘れ、進む道を失っています。何とか、今日の日本が武士(もののふ)の道を思い出し、自分達のアイデンティティを確認できればと考えます。
 昔、剣道は自分の身を守るため、主君を守るため、敵を斬って殺すことから始まりました。それが足利幕府ができ、室町時代のような安定した時代が続くと、剣術を体系づけてもっと精神的なものにしていこうという動きがでました。今でいう古流剣術ができたのです。関東七流派、関西から八流派ができあがりました。東国武道の原点は、武ノ神様を祭っている鹿島神宮であり、香取神宮です。
 戦国時代には命に関わる問題となり、武は盛んになりました。ところが、江戸時代のような平和な時代が続くと、真剣は木刀や竹刀に変わり、ひとつであった剣術が、形が中心になった古流剣術、竹刀剣道、試斬剣道である抜刀道、天井の低い室内でも剣を振り回せる居わりから斬り抜く居合道へと分かれてしまいました。そして殺人剣術は、やがて精神性をいれて剣道になり、竹刀を用いて鍛錬する道になったのです。
 私達は、それを元の剣道の姿に戻す努力をしています。古流の形を体で習得して、それが実際に斬れるか確認作業します。打合剣道で、宮本武蔵の言った「観の目」を育てます。「観の目」とは、相手の心の動き、体の動きが、事前に見える本能を育てることです。
 武士階級が存在していた当時、武士の嗜みとして、日本民族の中で世界的水準に達している最も優秀な人達が武(芸)道の世界に身を置き、この世を生き抜くため命を賭け、創意工夫して「剣の道」を究めたのである。当時の日本最高の人材が、必死三昧で創りあげたこの文化遺産を滅ぼすわけにはいかないのです。今日、文武両道のバランスがとれた大和民族を代表する人材は、実力主義のスポーツ界やオリンピック種目である柔道、全国区の剣道、テレビで中継される大相撲、そして格闘ブームで湧く空手という武道種目を選択はするが、地味な古武道には魅力を感じない。それでいいんだという古流の先生も多い。しかし、古武道は骨董品になってはならない。どんな時代でも武道でなければならない。この事が今日の古武道界の悩みでしょう。これからの我々の活動は、優秀な若者達の間で今日の環境でも生きた古武道として魅力ある世界にしていかなくてはいけないと思います。
 武道振興會では、分解した武道が大きな気持ちでひとつにまとまり、精神的な武士の道を悟れるような環境をつくれればと思っています。この流れを海外にも理解しやすく紹介していくために、THE SAMURAI-BUSHIDO SOCIETY と名をうって、新渡戸稲造の考える「武士道」やトム・クルーズが熱く思う「サムライ」心に関連づけて活動していきたいと思っています。
 古流剣道は、大きく分けて二つに分かれます。屋外、いわゆる戦場で甲胄着用して、剣、槍等使うものから、平和な時代に甲胄を着ないで斬り合いをした「剣術」と、屋内の中でも抜き打ちで斬る「居合術」に分けられます。
 剣術は、神代の時代からの太刀から、鹿島流の松本備前守とその弟子、上泉伊勢守が集約したものが原点になり、居合術は林崎甚助という武士が、自分の親の敵討ちから編み出した剣法といわれています。この居りからはじまる剣法、神道夢念流、夢想神伝流、無雙直傳英信流等は皆、林崎の流れをくんでいます。
 武道振興會では、これから日本に担っていく人達に、日本人の原点、大和魂を知るため、日本真剣の扱い方、斬法、日本の馬の乗り方、馬上での弓矢をいれた馬上武芸を研究して一人でも多くの人達にこの伝統を受け継ぎたいと熱く思って活動しています。

■剣法の原点―鹿島神傳直心影流とは
 武道こそ、今日の日本で唯一残った文化遺産でしょう。日本民族のエリート集団、武士階層での優秀な人材、今でいうイチローや松井秀喜両選手の様な士(もののふ)が、命を賭けて必死三昧で創り上げた美学になったのです。
 神代の時代からはじまり、太刀から美しいソリをもった剣(つるぎ)に進化して、剣術は武の神様―武甕槌神(タケミカヅチノカミサマ)を祭っている鹿島神宮から発したのです。国摩真人(クニナツノマビト)が武神から授かった大和の剣筋は、五百年前に松本備前守という天才武士によって鹿島神傳直心影流という剣法にまとめあげられました。
 当流は宗家制度ではなく、流派皆伝、実力主義の道統制度の伝統であり、十五人の実力者達がこの剣を磨きあげ進化させた。現在の古武道の剣術の大半はこの剣法から出てきています。剣道の間合、気合、呼吸、手の内、目付は、直心影流の基本形―法定之形に凝縮されています。又、山岡鉄舟翁も「この形の修業さえあれば修禅も必要ない」といわせる程の丸橋之形も存在するこの流派。
 当流二代上泉伊勢守は、袋竹刀を発明しました。八代道統者長沼は、防具を初めて発明して、近代剣道の礎を創った。十三代男谷静斎は、江戸時代の武道館、講武所の所長として武道界に君臨した。十四代榊原健吉は、兜割で当流の実力を見せた剣術の原点です。
 現代、鹿島神宮の池―御手洗池畔に当流石碑が二つ建っています。近代剣道の原点でもあり、古武道の中心でもあった消えつつある剣法―鹿島神傳直心影流を日本に残すため宗本部でまとめあげた本「鹿島神傳直心影流 宗本部」を出版することになりました。
 古流剣道や武史に興味のある方、及びに剣道高段者には必読書であります。
 是非、購買したい方はインファス・パブリケーションズ( 書籍販売担当/永松・坂本 TEL. 03-5786-1002)に連絡ください。

■流鏑馬の原点―弓馬術(倭式弓馬會)とは
 武士は、日夜、乗馬・弓術・剣術修業に励み、成果を見せるため弓馬術から、長い年月の間に神事となり、流鏑馬(やぶさめ)と呼ばれるようになりました。倭式弓馬會は、どこの流儀にもとらわれず、日本古来の弓馬術を伝承し、流鏑馬行事を定着されるために創立されました。この日本の文化遺産を守り、次世代を担う青少年に正しく継ぐ啓蒙活動をおこなっています。
 流鏑馬の起源と歴史は神代の時代からはじまっています。「流鏑馬」は、馬に乗って走りながら鏑矢を射放って、三枚の板的を射当てる騎射です。起源は六世紀にさかのぼり、第二十九代欽明天皇の御代に、国の内外が乱れたので、これを平定するため、天皇は豊前国宇佐の地に神功皇后と応神天皇の二柱を祀られ、神前において天下平定、五穀豊穣を祈られ馬上より三個の的を射られたのが、当初、「矢馳馬」と呼ばれ、後に流鏑馬になったともいわれています。天武天皇が「馬的射」をはじめたと「日本書記」に書かれています。奈良時代以前にみられる歴代天皇は、神事流鏑馬の振興に力を入れ、全国的にひろがりました。たとえば、信濃国諏訪大社に残っている祭事等を記述した文書の中に、八〇一年、坂上田村麻呂を征夷大将軍とした東夷征伐軍に参加した官兵が、奥州の地で流鏑馬神事の妙技を披露して邪賊退治のため、全軍の士気を鼓舞したという話が伝えられている。
 十一世紀の平安時代になると、白河上皇が鳥羽殿の馬場で、「流鏑馬」をご覧になったという文献が残っており、宮廷行事でありました。「馬に乗って鏑矢を射流す」ということから「流鏑馬」という字が当てられたといわれています。
 その後、第五十六代清和天皇は、流鏑馬に深い関心を示され、自ずから射手となって流鏑馬の奉納に参加されました。
第五十九代宇多天皇は時の右大臣源能有公に命じて弓馬の礼をつくり、「弓馬の礼法」が制定されました。しかし、長い弓馬術の歴史は、再三の社会不安で絶滅状態になり、現在新しい形で続けられています。