鹿島神傳直心影流は、言葉の通り東国の武の中心、鹿島神宮から始まり、「鹿島之太刀」と言われている。この太刀の始祖は、国摩真人(クニナツノマビト)である。「鹿島の神様」として、「鹿島神流」と呼ばれ、一時は三十以上の流派を輩出した流派の中心的立場にある。剣術流派の大半は鹿島から始まり、五百年の間に多くの流派は淘汰されたが、今日正式には、鹿島神傳直心影流、鹿島新當流、タイ捨流、柳生新陰流、示現流、鹿島神流の六流派に代表される。鹿島神宮の祭神「武甕槌主命(たけづちのみこと)」は、香取神宮の祭神「経津主命(ふつぬしのみこと)」と並び、東征軍主将(副主将)格であった。「直心影流」という言葉は、流祖松本備前守が鹿島で一巻の兵法の巻物を賜り、社前にあった木の枝を折って木剣にした由来による。法定之形に使われる木剣が直刀なのは、そのためでもある。鹿島神伝神の御陰で、鹿島大命神に祈念し、神妙剣一之太刀を授かり、神のおかげということで一時は「神陰流」と名付けた。現在、鹿島神宮に奉納されている国宝「直刀」は、日本最大の刀で、御祭神の神剣霊剣の名としても伝えられている。
 当流の鍛錬法には「振り棒」があるが、「一円相大道剣」と呼ばれ、六角に削った樫の棒で、長さは身丈、重さは十六キロ位ある。初心者でも続けて百回、五百回から千回振る事を目標にして、十日間で一万回振るという荒修業もある。
 当流の形は、五百年以上の歳月をかけて、十七人の優秀な武人達が創り上げた今日に伝えられた日本を代表する姿である。鹿島神宮に伝わる秘太刀―一之太刀は、八相剣にその特徴を表し、法定、韜之形、小太刀、刃挽、丸橋の五つの形より成り立っている。流祖松本守と道統二代上泉伊勢守が、鹿島之太刀の基本太刀として、法定之形五本を創り上げた。木剣で法定を行い、真剣を用いて法定の裏をつくった。四代源信斎が、法定を大自然の運行―(春夏秋冬)―として四本にまとめ、阿吽の呼吸法をもって行う剣術の原点の形を創る。
額縁 更に、韜之形の十四本を加えた。五代傳心斎は、小太刀之形を六本精華させた。七代一風斎は、木剣での打合稽古では危険であり、寸止めの韜之形では満足出来ず、息子八代長沼国郷と共に防具を発明して、剣術の草楷書として、形と打合剣道(当流内ではナガヌマとも呼ばれている)の流派を平和な江戸時代の剣道として確立した。十代から十二代の眞帆斎の三代で、多才な人材を育て、江戸時代の直心影流は、隆盛を極めた。十三代男谷信友静斎は、江戸幕府の講武所の頭取として君臨し、徳川家の柳生新陰流と共に武道界の頂点に立つ。十四代榊原鍵吉は、兜割で直心影流の実力を示し一世を風靡した。当流は宗家制度ではなく、流派皆伝、実力主義の道統制度を維持しているが、十五代山田次朗吉を最後に道統は途絶えた。次朗吉一徳斎の意をくんだ、大西英隆が百錬会を立ち上げ、その道統を復活させて当流を再興した。
 この尊い流派・鹿島神傳直心影流を少しでも広めようと各地で奉納活動を行う。
 
鹿島神宮の武道場「武徳殿」での稽古 (撮影 / 志村 星)
 
鹿島神宮奉納演武会 (撮影 / 大前 清、志村 星)
 
 
  鹿島神宮(茨城)
(撮影 / 林 佳夫)
 
     
城南宮 城南宮 城南宮
厳島神社(広島)
(撮影 / 宮崎 真)
城南宮(京都)
(撮影 / 林 佳夫)
藤森神社(京都)
     
城南宮    
下鴨神社(京都)

   

一、稽古について

当流は真剣を想定し、伝統の正しい刀法を学ぶ。
 運足法(運歩・真歩)、振棒鍛練、打込みから始め、法定之形、韜之形、小太刀之形、刃挽之形、丸橋の五形を学び、当流で考案した竹刀稽古法(ナガヌマ)や居合術、抜刀斬法術(試斬り)も修練する。
稽古場は東京と京都の2か所にある。東京の稽古日は、毎土曜日午後1時〜3時。
京都は、毎木曜日午前10時〜12時に行われている。



二、入門の案内

 当流は内弟子方式に近く、師が入門希望者と対面して当流に相応しい者かを見極め許可した後、入門願書(申込書)を提出して入門が許される。
入門が認められた後、 入門料 八千円を納入。月謝は三千円。後日、当流指定の稽古着(基本的には白袴)、帯、足袋、武具(木剣、袋撓)等を購入すること。
 高校生以下の門人は、入門料 五千円、月謝二千円とする。